将来像【思いやりと交流で創る新生文化都市】を目指して!
平成18年1月10日に、南河内町(みなみかわちまち)、石橋町(いしばしまち)、国分寺町(こくぶんじまち)の3町が合併し、人口約5万9千人の下野市「しもつけし」が誕生しました。
本市は、関東平野の北部、栃木県の中南部に位置し、都心から約85km圏にあり、首都圏の一端を構成しています。面積は74.58km2、気候は年平均気温が約14℃、年平均降水量が約1,300mmであり、夏は高温多湿、冬は低温乾燥のやや内陸性を帯びています。地形的には標高38mから60mほどで高低差のあまりない平坦な地形で自然災害も少ない安定した地域です。
江戸時代には五街道の一つである日光街道の宿場町(小金井宿・石橋宿)を軸として繁栄し、明治以降の国鉄整備に引き継がれ、物流の要衝として発展してきました。国道4号線、新国道4号線が市を南北に走り、東北自動車道や北関東自動車道の高速道路に近距離にあります。また、国道4号線に平行するようにして東北本線が走り石橋駅、自治医大駅、小金井駅の3つの駅があるなかで、都心には小金井駅からは約70分、南隣の小山駅から新幹線で約40分の距離にあります。
恵まれた自然環境と首都圏に近いという交通の利便性を生かした首都圏農業を推進し、イチゴ、きゅうり、トマト、にら、たまねぎ、ねぎ、なす、ごぼう、かんぴょう、ほうれんそうなど生鮮野菜の生産や工業・商業の調和のとれた産業振興が図られています。また、首都圏通勤者の多様な人材供給基地として快適な生活住環境整備が進んでいます。自治医科大学、同附属病院が立地しており最先端医療技術の集積と地域医療の充実が図られ、協働による更なる保健医療の発展が期待されます。
歴史的には、6〜7世紀の古墳時代にこの地方に有力な豪族が現れました。天武天皇の白鳳時代に下野薬師寺が建立され、下野薬師寺には日本三戒壇の一つである戒壇が設置されました。また、8世紀には聖武天皇の詔により下野国分寺・国分尼寺が建立され、下野市周辺は、古代東国地方の仏教文化の中心地として栄えました。現在は、文化遺産を保存整備した天平の丘公園では春と秋に花まつりや菊まつりが開催され、多くの観光客や市民に親しまれております。
新市の一体化の早期醸成を図り、住んで良かった、いつまでも住んでいたい街の創造に取り組む活気あふれる街であります。
《市章の趣旨》
下野市の「下」の文字をモチーフに、豊かな自然環境とともに健康で明るい都市の発展する姿を表現しています。中央の赤は新たな文化の創造と安全、安心な未来を象徴しています。
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